てっつうおしょうだびのはか

徹通和尚荼毘の墓


名称
徹通和尚荼毘の墓
よみ
てっつうおしょうだびのはか
所在地
太平寺1丁目1-1

大乗寺[だいじょうじ]を開山した徹通義介[てっつうぎかい]の荼毘墓[だびばか]で、高さ67cm、幅33cm、厚さ24cmの自然石に「大乗寺開山和尚荼毘墳」と刻まれています。徹通義介は越前国北足羽郷[きたあすわごう](現福井市内)の藤原氏出身で、14歳の時、比叡山延暦寺[ひえいざんえんりゃくじ]に上って修行をはじめました。その後、道元禅師[どうげんぜんじ]の門下となり永平寺[えいへいじ]で重職を務め、中国禅寺の伽藍[がらん]や規式[きしき]を調査するため宋[そう]にも渡りました。文永[ぶんえい]4年(1267)には永平寺の3代住持となり、寺院の整備を進めたことで「永平寺中興[ちゅうこう]」ともいわれたが、義介に反対する勢力によって寺を追われています。
義介は一旦隠居しましたが、正応[しょうおう]4年(1291)に富樫家尚[いえなお]に招かれ、ここを禅寺として永仁[えいにん]元年(1293)に大乗寺を開きました。義介は6年間勤めた大乗寺住持を門弟の瑩山紹瑾[けいざんじょうきん]に譲った後、延慶[えんきょう]2年(1309)に91歳で亡くなりました。
義介の葬儀は大乗寺で行われ、太平寺の通称「ダビ・ダボ(陀浦)」とよばれる場所で荼毘にふされたとされています。荼毘墓の石碑は、村の東にあった松林の中に築かれた塚の上にありましたが、明治時代の耕地整理による開墾で所在が不明となっていました。昭和2年(1927)に郷土史家の舘残翁[たちざんおう]が住民と石碑を探し出し現在の太平寺3丁目26に建立しました。石碑は平成19年(2007)に太平寺交差点のポケットパークへ移設されました。