Tettsu Osho Dabi no Haka

徹通和尚荼毘の墓


The cremated pleace marker of high priest Tettsu
その他の画像
種類
歴史資料
名称
徹通和尚荼毘の墓
よみ
てっつうおしょう だびのはか
員数
1基
所有者または管理者
太平寺町内会
所在地
太平成寺1-1-11号ポケットパーク
指定年月日
昭42. 2.11 平19.10.1指定変更

大乗寺[だいじょうじ]を開山した徹通義介[ぎかい]の荼毘墓で、高さ67cm、幅33cm、厚さ24cmの自然石に「大乗寺開山和尚荼毘墳」と刻まれています。
徹通義介は越前国北足羽郷[きたあすわごう](現福井市内)の藤原氏出身で、14歳の時、比叡山延暦寺[えんりゃくじ]に上って受戒したとされています。その後、道元[どうげん]禅師の門下となり永平寺[えいへいじ]において重職を務め、中国禅寺の伽藍[がらん]や作法を調査するために宋へ渡るなど実績を重ねました。
文永4年(1267)には永平寺の3代住持となり、寺院の整備を進めたことで「永平寺中興[ちゅうこう]」ともいわれたが、義介に反対する勢力の台頭によって寺を追われました。義介は一旦隠居しましたが、正応4年(1291)に富樫家尚[いえなお]が押野荘の一角に密教寺院として創建した大乗寺に招かれ、この寺を加賀最初の禅寺として永仁元年(1293)に開山となりました。義介は6年間勤めた大乗寺住持を門弟の瑩山紹瑾[けいざんじょうきん]に譲った後、延慶2年(1309)に91歳で亡くなりました。
義介の葬儀は大乗寺で行われ、太平寺の通称「ダビ・ダボ(陀浦)」とよばれる場所で荼毘にふされたとされています。荼毘墓の石碑は、村の東にあった松林の中に築かれた塚の上にあったものが、明治時代の耕地整理による開墾で所在不明となっていました。
昭和2年(1927)に郷土史家の舘[たち]残翁[ざんおう]と地元有志が石碑を探し出し太平寺に安置しました。平成19年(2007)に石碑は現在の太平寺交差点のポケットパークへ移設されています。

有形文化財(建造物)

有形文化財(美術工芸品)

無形民俗文化財

記念物(史跡)

記念物(天然記念物)