富樫氏資料

  

富樫氏は、北陸において平安時代の伝説的武者として仰がれる藤原利仁[ふじわらのとしひと]を祖先とする一族です。利仁から4代の忠頼[ただより]は加賀に住んで「斎藤」と名乗り、この忠頼の曾孫に貞宗[さだむね]と家国[いえくに]がいました。平安時代後期に家国は加賀の富樫郷に居住し、「富樫介[とがしのすけ]」と称したのが富樫氏の始まりで、林氏の始まりは貞宗とされています。

源平合戦では富樫仏誓家経[ぶっせいいえつね]の名が知られ、鎌倉時代には先に勢力を強めていた林氏[はやしし]の本家が、承久[じょうきゅう]3年(1221)の承久の乱で朝廷方につき衰退したことから、守護北条一門の代官として、守護の実質的執務を行い加賀における治世上の基礎を築き上げました。

鎌倉幕府討幕期に富樫高家[たかいえ]は足利尊氏[あしかがたかうじ]に従い、その戦功によって建武[けんむ]2年(1335)9月には、尊氏から加賀守護に任じられます。高家は館を野々市に構え、この館が政務をとった守護所とも考えられています。加賀守護は、氏春[うじはる]・昌家[まさいえ]と継承されましたが、室町幕府の主導権争いにより富樫氏の加賀支配は不安定となりました。

嘉吉[かきつ]元年(1441)、守護富樫教家[のりいえ]は将軍足利義教[よしいえ]の怒りに触れ失脚[しっきゃく]し、弟の泰高[やすたか]が守護に任ぜられたことから兄弟争いがおき、内紛の時代となりました。寛正[かんしょう]5年(1464)、教家の孫の政親[まさちか]は、泰高の隠居によって加賀一国の守護になったのですが、長享[ちょうきょう]2年(1488)の一向一揆[いっこういっき]において、泰高を総大将とする一揆方に攻められ高尾城で自害しました。

この後、泰高とその孫の稙泰[たねやす]が加賀守護を引き継ぎ、実権をもつ一向一揆方と協調していましたが、稙泰は、享禄[きょうろく]4年(1531)におきた加賀の主権をめぐる一向宗内の争い(享禄の錯乱[きょうろくのさくらん])に敗れて長男の泰俊[やすとし]と越前に逃れました。加賀に残っていた晴貞[はるさだ]は、元亀[げんき]元年(1570)織田信長[おだのぶなが]に味方したことから一揆方に攻められ、金沢市の伝燈寺[でんとうじ]で討死し、越前の稙泰、泰俊も天正[てんしょう]2年(1574)、攻め込んだ一揆方により自害しました。

ここに、連綿と続いてきた富樫氏は名実ともに滅亡したとされていますが、晴泰長男の晴友[はるとも]と泰俊三男の宗俊[むねとし]はひそかに逃れていたことが伝わっています。

※富樫氏の詳細な史資料は『野々市町史』に所収されています。

富樫氏の家紋「八曜」[はちよう]

「八曜」は北極星と北斗七星を表しています。
富樫氏は、祖先の藤原利仁が北斗七星の生まれ変わりと言われていたので「八曜」を家紋にしました。