Kyozuka

経塚


The site of Kyozuka sutra mound
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種類
史跡
名称
経塚
よみ
きょうづか
員数
1基
所有者または管理者
野々市市
所在地
御経塚2-335
指定年月日
平成12. 5.26

経塚は、経典[きょうてん]を永く後世に伝えるため、地中に埋めて塚にしたもので、その風習は平安時代の終わり頃に始まります。仏滅[ぶつめつ]後2,000年には仏教が衰えて社会が混乱すると考えられた末法[まっぽう]思想に基づくもので、経塚は全国にみられます。
戦国〜江戸時代の初め頃には集落の安全などを祈願して、小さな石に教典の文字を一字ずつ書いた大量の墨書石[ぼくしょせき]を塚に埋める、礫石[れきせき]経塚というものが造られるようになりました。この経塚はこの時期のもので、御経塚の地名の由来ともなっています。
寛延[かんえん]3年(1750)の押野村安兵衛の記録では、「此の塚の義、昔、石に経書付、塚につき込め申す由、伝え申し候」とあり、江戸時代の地誌『亀廼尾廼記[かめのおのき]』では、「此塚より経石まゝいづる也、いにしへ天台の巨刹「きょさつ」真願寺[しんがんじ]といふ跡あり、又大門金堂などゝゝ字の畑もあり」とみられ、経塚と寺院の伝承を知ることができます。
現存する経塚は、地域の歴史を知る上で、また当時の人々の願いや思いを示し伝えるものとして大切に扱われている。県内でも数少ない平野に立地し、経塚の確認例が少ない北加賀地域における貴重な存在であることでも重要視されています。
経塚は「塚腰山[つかごしやま]」とも呼ばれ、地区の人々により毎年2月15日に塚腰まつりが行われ、傅大子[ふだいし]像を納める小祠の扉が開かれます。以前の2月15日は「ヤシコ」と呼ぶ休日として村人は仕事を休み、村長が酒一升を経塚に供えお参りしました。
また、経塚は女人禁制であったことや、冠婚葬祭にあたり村人が「明日法事があるさかい、御膳を何人前」と頼むと膳が整えられていたという、椀貸[わんかし]伝説が残されています。

有形文化財(建造物)

有形文化財(美術工芸品)

無形民俗文化財

記念物(史跡)

記念物(天然記念物)